無題

俺は昔小説を書いていた。目的は二つ。何者かになること。俺みたいな人間を救うこと。

最近バンドを始めた。ずっとずっとやりたかった激情ハードコア。スタジオに入ってみんなで音合わせてるだけでも楽しくて。

ライブもやりたい。が、それ以上に音源を俺は作りたい。残したい。なぜか。目的はやはり二つ。痕跡をわかりやすい形で残すこと。そして俺みたいなやつを救うこと。その二つは表裏一体。 The Catcher in the Rye. そして観念の浄化。

七割方オートマティスム

見慣れない誰かのうなじを舐めるように見てそれに飽きると今度は電車の中で煙草を取り出し火を点けた。ああなんとなく情けない、昨日忘れた名前をまた忘れ、足踏みしながら見上げた塔。捨てた本の帯だけが、部屋のどこかで埃を被る。高く翔んで逃げる夢。

思考停止と性愛ゾンビの罠

相変わらず書くことがない。来月やるライブの告知などこんなブログでやってもしょうがないしそもそもこのブログを読む人は俺のツイッターのフォロワー以外ありえない。固定ツイート見てください。


稚拙ながら何かしら常にものを考え続けてきた十代以降の俺の人生においてはきわめて異例なことに現在何も考えていないし考えたいこともない。なぜかと言えばいかなる問いを立てようともすぐさま自ら答えを出せてしまうからである。それは無論全てをそこから演繹できるほどの確固たる自前の思想体系を築き終えたからではなく、単にインプットを怠っているからでしかない。しかし考えたいことがないゆえにインプットを進んで行う気にもなれないのである。外発的要因により無理矢理インプットを行う以外にここから脱け出す方途は恐らくない。脱け出す必要性など微塵も感じていないのだが。

それとは別の話。

俺は八月の失恋以降根本的に恋愛ができなくなったような気がしてならない。恋愛とはそれが実際に交際に至ったあとは相手への執着以外の何物でもないというのが俺の信念だがなんとなくそのきわめて強い執着心を俺はもはや持てないのではないかと最近の自らを省みて思う(別に新しく彼女ができたわけではない、かと言って巷の性愛(承認)ゾンビよろしくマッチングアプリその他において精スプ行為を働いているわけでも無論ない)。それが無意識の自制なのかそれともその回路が壊れてしまったのかはまだわからない、が、もしかすると俺もまたくだらない、本当にくだらないあの性愛ゾンビの罠にまんまと嵌まってしまったのかもしれないと思うと実に空恐ろしい。性愛ゾンビほど資本主義的なものもない。俺の解釈では、セカイ系的「私とあなた」の絶対的二者関係=恋愛の社会化こそ資本主義と近代市民社会の外部をもたらす突破口である。というのはまあ戯言なので忘れてくれ。



さて今回も読み手を楽しませようと思って書いたわけではないので内容的にはかなりどうでもいい話になった。こんなブログより来月行うライブを観てほしいと心から思う。

どうでもいいこと

あの街について、それらしくどうでもいい言葉で語ってみようと思ったがやめた。俺は端的に言って文章を書くのが苦手だ。

しかしそれと少し関連して。

最近ナンバガの歌詞をいくつか読み返す機会があった。そこであらためて思ったこと。ナンバガ=向井は(あるいは二十代以上でナンバガ=向井に心酔している人は)酒と煙草と性風俗を、つまりあの群衆の街をもはや所与として生きる人(々)なのだろう。サブカルといわれるもの総体にそのような何かを感じずにはおれない。ここに書くのはためらわれるが最近一部界隈で話題になっているあの……の話はやはりやめておく。俺は嫌いなものが多すぎる、それを確認しておくだけで十分だ。成熟者の秩序の外側で。

九月

今月はゼミ合宿があったり教習所の技能教習が始まったりする。ゼミ合宿では一人一つ資料作ってプレゼンをしなければならないそうだが当然何も考えていない。先生には先月ずっと病気だったと嘘ついて(あながち嘘でもないが)すが秀実の68年論のくだらない要約で許してもらおうと策を練っている。

関係ないが九月中頃あたりからのあの秋の陽射しが俺は嫌いである。どの季節にもいい思い出などろくにない俺ではあるが晩夏~秋にかけては特に酷い。何があったかなどいちいち思い出せないがなんとなく毎年酷かったような気がしている。秋の陽射し、暑いくせにぎこちなく涼しくて冬のどぎつさを混ぜてくるあの陽射し、ああ沖縄に逃げたいね。こないだ祖父からお小遣いをもらった。それと今度入る少額のバイト代、親から多めに騙し取ったゼミ合宿の費用を元手に二泊か三泊で南の島に行きたいなと夢想している。八重山そばかソーキそばが、食べたい。


追記。
早くバンドでライブやりたい。来月には……と思っているがどうだろう。ともかく今の俺にとってバンドだけが蜘蛛の糸。上った先には何があるのか。

無題

早々に書くことがなくなった。無論嘘であり、書きたいこと、というより書かねば気が済まぬようなことは山ほどある。だがそれはその内容から言って闕語法でもって語られるほかあるまい。そこまでする気力はない。

気分が好転すれば例の新海の新作について批評めいたものを書いてもいいかもしれない。一応それらしきものは公開直後にメモ帳にしたためてあるのだが、とても仕上げる気にはなれないし、公開する意義も感じない。どうせ大した内容でもない。杉田俊介の評よりはマシだとは思いたいが。

ツイッターのbioで社会思想家を自称しているがこのような状況下で社会のこと(僕─社会─世界なる構図における中間項としての社会)などいかにして考えうるというのか。普段だって単に社会思想や批評に関心があるだけで、現実の政治や社会問題など鼻で笑っているだけなのだが、もはやそのように鼻で笑う気にもなれない今、社会は完全に後景に退いた……「社会は存在しな」くなったと言ってよい。そんなわけで「精神的に安定してるやつが能天気に批評とか言ってンだろ?」と投げ槍に言うに至る。まあなんだっていい。事情を知る人からしたらどうせ去年の反復だ。ただし、一度目は喜劇として、二度目は悲劇として、なのだが。


相変わらず内容がない。よく考えたらブログ書く意味も特になかった。